【紙幣のあの人】改めて福沢諭吉について知ろう!
どうも、祭です。
みなさん福沢諭吉についてどれほどの知識がおありですか?
「学問のすゝめの人だよね」
「一万円札だね」
「学者さんだよね」
まぁ、いくら社会で勉強していたとしても、けっこう忘れているものです。
今回はそんな福沢諭吉について、簡単にまとめましたのでよかったらご一読ください。
「福沢諭吉」はかんたんにいうとこんな人
日本の武士で蘭学者。
教育者であり、慶應義塾の創設者!
また、一橋大学、神戸商業高校、北里研究所、東京大学医学研究所、などの創設にも福沢諭吉は尽力しました。
そして、時事新報(新聞)の創刊者でもあり
日本学士院の初代会長も務められました。
まぁ、オランダ語を勉強して日本でいろんなことを始めて
いろんなことで名を残したすごい人ってわけね。
「蘭学者」ってなに?
オランダ語をベースとした、ヨーロッパ西部の近代科学を学び
それを日本人へ伝えることをしていたのが福沢諭吉です。
なので、彼はオランダ語と日本語を喋れたんですね~~~
凄いです。
福沢諭吉は三言語もしゃべっていたよ!
福沢諭吉は日本語はもちろん、蘭学者なのでオランダ語もしゃべれます。
諭吉がオランダ語を勉強していたのは、今後の仕事で異国の方と交流をするためです。
それと、当時の日本で正式に国交があったのはオランダだけでした。
ですが、
1858年、諭吉が23歳のときに当時海外の方が多くいた横浜の地へ訪れたときに、周りの外国人は英語しかしゃべれずに、諭吉ショックを受けます。
なんと、共通の言語はオランダ語ではなく英語だったのです!!
当たり前ですが、当時の日本に英語の教科書なんてあるはずがなく・・・・
おまけに周りに英語のネイティブスピーカーもいませんでした。
なので、諭吉は英語とオランダ語を対訳した辞書を手に取り、なんと独学で英語を学びます。
そのため、福沢諭吉が日本で初めて英語の勉強をした人だともいわれています!
諭吉、アメリカへ行く
1860年、諭吉が25歳の時に幕府に志願しアメリカへ行きました。
そこで諭吉は素晴らしい体験をするのでした。
■アメリカ文化に感銘!
諭吉は異国文化へ触れ感銘を受けます。
例えば、アメリカは能力を重視し、身分に関係なくだれでも活躍できる可能性があることなど。
■文化には驚いたけど、文明に驚かない諭吉
ですが、一方で諭吉は日本よりか優れた文明を見ても驚かなかったとも記されています。
例えば、電気。
まだ、エジソンが電球を発明していないので暗闇をともす光こそはありませんでしたが、電信はありました。
それらを当時のアメリカ人は諭吉に見せました。
「うちらの文明すごくね?」
って。
でも、諭吉は驚きませんでした。
「これテレグラフっしょ?うち知ってから」
と返してやったのです。
(もちろんですが、当時のアメリカ人も日本人もこんなギャルな言葉は使っていません。わかりやすく現代語訳しました)
そのあと、諭吉は様々な文明を見ました。
真空して沸騰させる方法や、電気メッキ法。これらは今でこそ当たり前なものですが、当時では素晴らしい発見でした。
それにアメリカ文明について・・・
いろんなことを見たり聞いたりしてもかれは驚きませんでした。
なぜなら、彼は蘭学者。
オランダ書物を読んでいたので、原理や構造はすべて頭の中に入っていました。
■そんなすごい諭吉にもカルチャーショックはあった
アメリカでは3月や4月でも氷があるので、驚いたらしいです。
なんと、アメリカの文明には驚かないのに、氷で驚くんですね。
でも、当時長期的にものを冷やすものが出回っていないことから、この反応は当たり前とも言えます。
さらには、サンフランシスコのホテルでじゅうたんが引き詰められていることに驚き、
そしてなんとアメリカ人はその上を靴を履いたまま歩きます。
諭吉ショック。
これらのことは自伝に残されています。
諭吉はすごい人!
平成を豊かにしてくれたわれらが諭吉はすごい人でした!!!
みんなも諭吉をもっと知ろう!!
それではノシ